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ねぶた祭りの意味からいつ行われているのか?裏話はあるのか!?

お祭り

ねぶた祭りって聞くと、青森のまつりってぴんと来るけど、あれほどの(危険な行為)祭りの盛り上がりには何か秘密かあるのでは?

そんな変なイメージ思いつきますが、実際はどうなんでしょうか?

これって勘違いかもしれないので、ねぶた祭りの本来の意味を知って、しっかりねぶた祭りを楽しみましょう!!

ねぶた祭りの歴史は?

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ねぶた祭りの歴史を紐解きましょう!!

ねぶた祭りが、記録上初めて登場するのは、享保年間(1716~1736年)のことです。


一番最初のねぶた祭りは、弘前のねぷた祭りを真似て行われたものなんですね。

その様子は、「灯篭を持ち歩き踊った」という記録が残っているそうです。

ねぶたも、担いで移動させる「担ぎねぶた」で、京都の祇園祭の山車に近いものだったと言われています。

ねぶた祭りに踊りが付いていたという記録があるのは、安永年間(1772~1781)になります。

◆江戸時代~明治初期

江戸時代後期になると、人形(ひとがた)のねぶたや、大型の担ぎねぶたが作られるようになってきました。

ねぶた祭りも進化していきました。

祭りもより華やかで、盛大なものになっていきました。

この時代は、担ぎねぶたが主流で、1869(明治2)年には、担ぎ手が100人という巨大なねぶたもあったそうです。

◆明治時代初期以降

突然大変なことが起きました。ここまで盛大に行われていたねぶた祭りが、1873(明治6)年にねぶた祭りは突然禁止されてしまいます。

初代青森県令(今の県知事)が、ねぶた祭りの禁止令を発布したためです。

当時の知事は、中央から派遣されていたこともあって、ねぶた祭りを目の当たりにして禁止を決めたかもしれません。というのも。

「ねぶた祭りは、昔ながらの野蛮な風習で大勢集まって喧嘩をする」という理由からのものでした。

でも、庶民のエネルギーがと止められるわけもなく、実際は、禁止令が布かれていた間も、かなりのねぶたが運行していました。

そのせいか、禁止令下での運行を知られないようにしていたので、一旦巨大化したねぶたが、小さくなっていきます。

この禁止令は、1881(明治14)年まで続き、翌1882(明治15)年に、解禁されました。

ところが、禁止令が解かれたあとも、ねぶたの縮小化は続きます。

そのわけは、電気の普及と共に、電線が張り巡らされたためです。

時代の流れといえば、それまでかもしれませんが、ねぶたは、担いでも電線にひっかからない大きさに変化していきました。

たとえ小さくても、ねぶた祭りは続けられていったのです。

◆昭和初めから

全世界が不況の波にのまれた1929(昭和4)年、経済的に苦しい中であっても、ねぶた祭りは続けられましたが、やはり戦時中には、自粛を余儀なくされます。

日華事変の起こった1937(昭和12)年から第二次世界大戦が終結した1945(昭和20)年までの9年間、ねぶた祭りは中止されていました。

そして、1946(昭和21)年、戦後の復興もままならない中、ねぶた祭りが復活します。

1947(昭和22)年には「戦災復興祭り」、1948(昭和23)年以降は「青森港祭り」という名称で、開催されました。

現在の「青森ねぶた祭り」という名称になったのは、1958(昭和33)年のことです。

また、戦後のねぶたは、再び巨大化していきます。

現在のように、横に大きくなったのは、運行に、広い道路が使われるようになったから、と言われています。

祭り自体も、年々華やかになり、次第に、観光化していきました。

現在では、期間中の人出が300万人を超える国内有数のお祭へと成長しています。

ちなみに、ねぶた祭りは、1980(昭和55)年に、国の重要無形文化財に指定されたのは記憶に新しいところですね。

ねぶた祭りの裏話って?!

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本題のねぶた祭りの意味になるのですが。

ポイントは、ねぶた祭りの掛け声の「らっせーらー! らっせーらー!」、「らっせ らっせ らっせーらー!!」

◆ねぶた祭りの意味・・諸説1

広く伝わっているのは、「出せ出せ」が語源となっているという諸説の一つです。

まだ、ねぶたがろうそくの灯でともされていた頃のことです。

ねぶたを灯すろうそくを集めるために、子供達が各家を回っては、「出せ出せ、ろうそく出せ、出さねばかっちゃくぞ」と、それぞれの門戸で、囃し立てたのだそうです。

また、ねぶたが各家や辻を流していた頃には「出せ出せ、いっぺぇだせ」という掛け声で、お振る舞いや寄付金をねだっていました。

これらの「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声がついて「らっせ、あー、らっせ」に変化、その後「らっせーらー、らっせーらー」になったと言われています。

◆ねぶた祭りの意味・・諸説2

七夕の行事から始まったという説です。

七夕の行事とお盆の「迎え火」「送り火」が合わさり、更に変化してねぶたになったのだそうです。

8月という開催時期も、これなら納得ですね。

◆ねぶた祭りの意味・・諸説3

「らっせ」は「拉っせ」もしくは「羅っせ」で、「殺すな、捕らえろ、連れて行け」という意味を持っている、というもの。

これは、蝦夷(えみし)討伐に由来しています。

蝦夷とは、本州東部(現在の関東地方の一部と東北地方)と、北方(北海道)に住んでいて、大和朝廷などの中央集権に従わなかった人々を、異端もしくは、異属視した呼び方です。
また、蝦夷は「えぞ」とも読まれますが、こちらは、北海道・樺太・千島の先住民であるアイヌ民族を指す言葉です。

朝廷が蝦夷討伐を職として任じたのが、征夷大将軍です。

その中でも、坂上田村麻呂は有名ですね。

蝦夷討伐というと、どうしても惨忍なイメージを持ちます。

でも、実際には、坂上田村麻呂が考えていたのは、戦って征伐するよりも、蝦夷の生活に、安定をもたらす事を第一していました。

また、蝦夷討伐で捕らえた捕虜を、一番多く他の地域に移住させたのも彼です。

こうすることで、多くの人々が、処刑されずに済みました。

しかも、移住させた人々を心配して訪ね歩いた、という話も残っています。

だからこそ、らっせは、「殺すな、捕らえろ、連れて行け」という意味を持ったというのがこの説です。

もし、ねぶたが、武家社会のような、殺伐とした時代に始まっていたとしたら、らっせは「殺せ」など、もっと攻撃的な意味を持ったんですね。

ねぶたの由来を調べていると、坂上田村麻呂は、蝦夷討伐でたくさんの蝦夷を殺害したと、多く書かれています。

でも、この説からは殺害なんて微塵も感じられませんね。

ねぶた祭りはいつ?!

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◆青森ねぶた祭の前夜祭から

8月1日に行わる前夜祭では、会場内ステージでねぶた囃子演奏や囃子持久力コンテストなど様々なイベントが行われ、明かりが入った大型のねぷたを全部見られるそうです。

8月1日
18:00~21:00頃 (会場:青い海公園特設ステージ)
前夜祭
19:00~20:40頃 (会場:浅虫温泉)

第70回浅虫温泉花火大会

8月2日・3日
19:10~21:00
子どもねぶた(約15台予定)・大型ねぶた(約15台予定)の運行

8月4日~6日
19:10~21:00
大型ねぶたの運行(約20台運行予定)

8月6日はねぶた大賞他、各賞を発表。
6日は受賞したねぶたをご覧になれます。

◆青森花火大会
ねぶた祭の最終日の7日には、青森港の会場を6台のねぶたが運行し、約11,000発の花火が華やかに打ち上げられて、祭りのラストを飾るそうです。

日程:8月7日
時間:19時15分~21時頃
会場:青森港

1週間かけて大々的に行われるねぶた祭りを一度は目の当たりにして迫力を体感したいものです。

ねぶた祭りまとめ

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ねぶた祭りは地元に住んでいる方そして、いまでは他の地域からのかたでも参加できる参加型の祭りです。

かつてカラス族といわれる人たちがいる一方で、それらは衰退し、タスキをかけずに振袖で参加するタイプの新参者がいるようです。

とは言っても決して悪いことではなく、祭りは進化してなんぼ、楽しんでなんぼなので悪い方向に向かわなければ、祭りをとことん楽しむという意味では良いですね。

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